「ダメ出しが怖い」正解依存の私が気づいた、自分の中の“ワクワク回路”の動かし方
赤点・合否・発表の「公開処刑」──なぜ私は「ダメ出し」に怯えるようになったのか?
高校までは「赤点か否か」、大学での実習や国家試験も「合格か不合格か」。
ずっと「0か100か」の二者択一の評価システムの中で生きてきました。
働いてからも、患者さんの報告書や講義の資料を先輩方に見てもらうとき、提出してからフィードバックを受けるまでの時間は、まさに地獄のような緊張感でした。
実習や職場での発表時、先輩方からの「これってなんでこう決めたの?」「どういう意図?」という質問。
怒られているわけではないと頭では分かっていても、私の中で質疑応答は「公開処刑」のように記憶されてしまったのです。
あんなに指摘されるのが嫌だったはずなのに、先輩から「いいと思う」「分かりやすい」と否定されないと、今度は「本音を隠しているのでは?」と逆に不安になる……。
いつの間にか自分の中に「指摘ありき」「正解依存」という矛盾した防衛回路ができていました。
なぜ子どもは直進でき、大人は怯えるのか?──自己肯定感の質と教育の背景
前回の記事でも触れましたが、自分で作ったAIゲームを自信満々に「僕が作ったんだよ!」と見せるしょう君と、「ダメ出しされたらどうしよう」と怯えていた私。
同じ日本の教育環境にいるはずなのに、なぜこれほど差が出るのか?
その背景には、「減点主義や他者評価に晒された時間の長さ」と「自己肯定感(自尊心)の構造の違い」がありました。
しょう君の自尊心は、「作ることが楽しい!僕が作ったからすごい!」という内発的で無条件なもの。
一方の私は、長年の学校や仕事で「正解を出すこと」「人に認められること」でしか自分を評価できなくなっていました。
他者の評価に依存した条件付きの自己肯定感になっていたのです。
長年「正解」を求められてきた大人は、成果物を見せる際に過去のダメ出しの記憶が自動検索され、「自分を守るため」に無意識に予防線(怯え)を張ってしまう。
これが、子どもと大人の間に立ちはだかる「自尊心と防衛回路」の壁だったのです。
「結婚式の準備」で体験していた、私の中の“しょう君モード”
過去を振り返ると、私にも“しょう君”と同じ状態だった瞬間がありました。
自分の結婚式の準備(招待状や席次表、ウェルカムスペース、動画など)をほぼすべて自作したときのことです。
参列者に見てもらうとき、恐怖は1ミリもなく、圧倒的な自信とワクワクしかありませんでした。
なぜならそこには、「参列者はみんな味方」「お世話になった人に喜んでほしい・楽しんでほしい」という強い信頼感と純粋な感謝・愛(内発的動機)があったからです。
そして、自分が過去に参列した経験から「この演出は要らない・入れたい」と客観的に見直すメタ認知も自然に働いていました。
「ビクビク」を越えた先にある、本当の自分軸と仲間
今回の勉強会で自分で作ったアンケートアプリを、勇気を出してベンテクさんに見せたとき。
目の前で実際に触って動かしてもらい、「すごいっす!めちゃくちゃいいっす!」と言ってもらえたとき、素直に嬉しかったです。
ベンテクさんのフィードバックは、肯定から入り「強いていうなら」と1-2個意見をくれました。
それはマーケティングを全然知らない私がワクワクだけで作ったものを、使ってみたさらに先の視点から、明確な意図を持った意見でした。
「気を遣ってお世辞しか言わない人もいるけど、俺はちゃんと言います。」と届けてくれたアドバイス。
それは恐怖の「ダメ出し」ではなく、「もっと面白くするための招待状」でした。
もちろん、私の中にはまだ「人にどう思われるか」を気にして揺れる部分もあります。
けれど、今回のアプリは誰かに言われて作った指示待ちの提出物ではなく、「私がワクワクして作りたくて作ったもの」。
自分が「楽しい!」と生み出した原動力を信じ、そこに信頼できる人たちからの熱いフィードバックが掛け合わさったとき、創造はさらに何倍も面白くなるのだと知りました。
他人の評価に怯える防衛スイッチをオフにして自分軸のワクワクで動けたとき、私たちは他者の意見も軽やかに受け止めながら、どこまでも自由に創造を楽しんでいけるのだと信じています。

「指摘=公開処刑」のように感じてしまうプレッシャーや、正解を求めて予防線を張ってしまう心理にすごく共感しました。評価への恐怖から離れて「自分がワクワクして作ったもの」という原点に立ち返ることで、他者からの意見も前向きに受け止められるようになる変化のプロセスがとても印象的です。